これからのために……。

みなさんこんにちは! げんです!

忙しくて全然更新できていなかったんですが、台湾で大変な事件が起こったので思ったことをまとめておこうと思います。

 

日本の団体が台湾の慰安婦像に乱暴 国民党議員、日台交流協会前で抗議 | 政治 | 中央社フォーカス台湾 MOBILE

 

台南でこういう事件があったんです。

以下、Facebookに投稿した僕の思いです。文体がいつものブログと違って申し訳ないですが、台湾が大好きだと思う人には知ってほしいし読んでおいてほしい内容です。

 

昨日、この件について思ったことを中国語で書いてFacebook投稿したが、ネットでの色々な反応を見てまた思うことがあったし、また日本人にもこの事件についてよく考えてほしいと思ったので少しばかり思ったことを日本語でまとめておきたい。

さて、今回のこの事件、みなさんご存知だろうか? 台南にある慰安婦像を「慰安婦の真実国民運動」の日本人メンバーがひと蹴りした、という事件だ。この事件に関するニュースを見て、私はとても失望した。慰安婦に関する日本の対応にはずっと失望しっぱなしであったが、実際にその像を蹴るという事件の衝撃は大きなものであった。旧大日本帝国戦争犯罪被害者の象徴である慰安婦像を蹴ったのだ。これは実際にその暴力の被害にあった方とその家族の傷ついた心を蹴ったことと同じであるその事件を知って、私は、申し訳なく思うとともにすごくやるせなくなった。本当に心ない人がいるんだな。

 
私は日本生まれ日本育ちの日本人である。両親も、祖父母も曽祖父母もみんな日本人である。中国人でも台湾人でも、韓国人でも在日朝鮮人でもインドネシア人でもフィリピン人でもない。それゆえに、本当の意味で戦争犯罪の被害にあった方々が抱える心の傷の深さを知ることはできない。だから、加害者側の子孫である私がなんと言おうと白々しく思われてしまうかもしれない。それは仕方のないことであると思う。

だが私は、完璧とは言えないが、ある程度中国語とインドネシア語ができる。だからそれらの言葉を使って実際に戦争を体験した外国の方やその子孫から話を聴き、それについて話し合うことができる。先月まで台湾に留学していたのだが、その1年を通して多くの台湾の友達やその家族などと先の戦争中に日本がしてきたことについて話し合うことができた。また、学校のクラスにもアジアの国々の学生が多かったため、そこでも色々と話し合うことができた。

話し合ってどうだったか。

当たり前だが、人によって考え方は違うし表現の強さも違う(強く非難されたこともあった)。だが、どの人にも共通していたのは、あの時代のことを忘れていない、ということ。若い人でも祖父母から実際に話を聞いて、その時のことをよく知っていた。

南京大虐殺がなかったとか、慰安婦はいなかったとか、日本人は本当にそう思っているの?」

仲のいい台南の友達に言われた言葉だ。

 

私はそのとき、はっとした。

ああ、このように思われているんだ、と。

 

その時私は「決してすべての日本人がそういうわけではないよ。そうじゃない人もいる。ただ、今の政府の態度はそういう感じ」と答えた。そう、決してすべての日本人が過去の大きな罪を否定しているわけではない。ただ、わりと多くの日本人は本気で否定しているし、さらに多くの日本人はだいたい無関心である。被害者側と加害者側の意識のズレ、70年以上経っているとはいえ、いや、だからこそ、これは大きな危機である。

 

私は、日本の戦後処理はきちんと行われなかったと考えている。こういうことを言うと「サヨクだ!あいつは共産党(か、社民党か。どうでもいいが)に洗脳されている!反日だ!」などと言われる。この手の人は、自分に都合の悪いことがあると、相手を反日認定して逃げるので話にならない。ずさんな戦後処理については、歴史を学ばなくとも現代においてどういう問題が起こっているのかを見れば明らかである。実際に近隣国へ行ってみればすぐにわかるであろう。被害にあった人やその子孫の心の傷はまだ癒されていない。ふつう戦争で体に怪我をしたら、その傷跡を見てときどき戦争のことを思い出すだろう。心の傷も同じである。目に見えないだけで、傷はいつまでたっても癒されることなく残っているのである。そして、目に見えないからこそ、問題が解決されないままになってしまっているのであるが。傷は今でもたしかに残っている。このことを日本人は知るべきではないか。

 

「私がやったんじゃないんだもん」と理不尽に思うかもしれない。だが、私たち日本人がどう思おうと、被害国の人々からすれば私たちも実際に戦争犯罪に手を染めた人も同じ「日本人」なのである。誰に、というわけでなく、その抽象的な「日本人」に対する怒りや憎しみがおさまることなく今になるまでずっと彼らの心の中で燃え続けているのである。


台湾はよく「親日」であると言われる。私はこの「親日」「反日」という言葉を国や地域、民族に対して使うことが好きではないのであまり使いたくないのだが、ともかく台湾に日本に対して好意的な人が多いのは間違いではない。日本文化が好きだという人や日本語を勉強している人は多くいるし、台北の町も日本系のチェーン店ばかりだ。実際に「日本が好き!」と口にしてくれた友達もたくさんいる。

 


では、これが過去の日本の大きな過ちを許してくれていることを意味するのか?

 


答えは否、まったくそんなことはない。普段どれだけ日本に好意的な友達も、慰安婦がいなかったなどと言うことは決してないし、この間の日本人が慰安婦像を蹴った事件に対して怒りをあらわにしていた。自分の祖母、曽祖母の世代が実際に被害に遭っているから当たり前の反応である。

私は昨日、多くの日本人は「日台友好」を謳いながらも、自分たちにとっては都合の悪い過去の日本の過ちに関しては口を閉ざすか否定するかしている(大意)、と書いた。そして、それは台湾をまったく愛しておらず、都合よく利用しているに過ぎない、と指摘した。すると、台湾の友達がコメントをくれた。「台湾にとても関心を持ってくれているんだね。台湾と日本の間でいさかいが多くならないといいな」とか「ありがとう!大部分の日本人は友好的で平和的だと信じているよ」と言ってくれた。彼らは日ごろから日本が大好きだと言ってくれる人たちである。そんな彼らも都合よく台湾を利用する日本人を快く思うことはない。まったく当たり前のことではあるが。もちろん悪意を持ってというか、自分の利益のためにそのように振る舞う日本人は一部でしかないのだろう。しかし、そうではない日本人であったって、あまりに無神経なことが多いように思う。台湾人の目の前で「慰安婦ってウソだったんでしょう?」と言ったり「台湾は日本が来たから発展できたんだもんね」と言ったり。そういうのを何度も目にしてきた。もちろん悪意を持って言ったのではないことは、私だってよくわかっている。ただ、やはりあまりに配慮に欠けるやりとりではないか。

 

台湾には優しい人が多い。日本語を勉強していて日本人と知り合いたいという人は、日本人にすごく優しくしてくれる。それはそうだ、私だって台湾人と知り合いたいなら優しく接するのは当たり前だし、多少のことには目をつむるだろう。日本人がポロっと無神経なことを言ったとき、彼らはずっと黙っていた。何を考えていたのかはわからない。その日本人のことばを肯定するでも否定するでもなく、ただただスルーした。大人の対応というやつである。せっかく友達になれたのにそんなことで仲を悪くしたくない。そういう気持ちがあったのではないだろうか。

たかが「そんなこと」されど「そんなこと」である。こういった無神経な発言があるたびに、私は日本人と台湾人の間の溝を感じる。その場に居合わせた台湾人がスルーするその一瞬、戦争は本当の意味でまだ終わっていないと感じるのである。撃ち合いがあるわけでも、冷戦のように牽制しあうわけでもない。だが、とこかまだ確執があるような気がしてならないのである。

 

私が考えすぎなのだろうか。

だが私は、加害者側の子孫として、考え過ぎくらいの方がいい気がする。忘れてしまうよりはるかにいい。

忘れることは、とても恐ろしいことだ。知らぬ間に相手を傷つけ、悲しませ、また憎しみを生む。

 

あったことをなかったというのは、もっとひどい。そこには悪意がある。目的ありきの行動である。それが今回の事件を引き起こしたわけである。

多くの人は悪意を持ってこういうことをするようなことはない。だが、忘れてしまう可能性は大いにありえる。だからいま一度、自分の目で見て、耳で聞き、頭で考えることを重視すべきではないか。

 

台湾の景色は綺麗だ。食べ物も美味しい。優しい人も多い。中国語も台湾語も聴いていてとても心地がいい。「台湾大好き」と言いたくなる気持ちもわかる。ならば、その大好きな台湾に対して過去に日本がどういうことをしてきたのか、自分たちは知っておくべきではないか。調べていくと、つらくなるかもしれない。恥ずかしく思うかもしれない。申し訳なく思うかもしれない。信じたくないくらいにひどい事件について読むこともあるかもしれない。だが、本当に台湾が大好きで愛しているなら、その過程を避けるべきではない。私たちが知ることを始めなければ、このまま両者の溝が埋まることはないし、また彼らの心の傷をえぐることになってしまう。知ること、それが本当の意味での和解への一歩ではないだろうか。

現実と向き合い、知り、悔やみ嘆き悲しみ思い悩み、それを通して相手の気持ちを理解すること。これが必要なのではないか。

これは台湾との関わりだけではない。中国、朝鮮半島、東南アジアの国々、在日コリアン、これらすべての人たちとの関わりにとってとても大切なことである。時間はかかるだろう。だが、確実に一歩ずつ心の底からの和解へと歩んでいくことを望む